41. 銀の横笛



 空は、もう深い青。二人は口を開く事も無く、そのまま動かなかった。夜の虫がにわかに騒ぎ出した頃――

「……ガンディーノはもうずいぶん昔に捨てた、オレの故郷だ」

 テリーが呟いた。

「10年前、オレもギンドロに大切な物を奪われた……」

 ミレーユの事を言っているのだろう。苦しそうに言葉を押し出す。

「取り返そうとして力の無かったオレは逆に酷い返り討ちに遭った。その事がキッカケで誰にも負けない力が欲しいと思った……だが当時のオレは生きていく事すら困難で、汚い大人の力を借りて恥辱にまみれながら生きていくしか無かったんだ」

 ユナの瞳が強張った。
 テリーはどうしてこんな事を言っているのか分からなかった。
 誰にも知られたくなかった自分の過去。決して話す事の無いと思っていた昔の卑しい自分。

「幸い見た目は悪くなかったからな。好色家の家で世話になるなんて、いつもの事だった。オレはプライドも何もかも捨てて、自分でそうやって生きる事を選択したんだ……」

「テリー…」

 何を言ってるんだオレは……。何故かおかしくなってテリーは嘲笑した。自分にも、自分の過去にも。

「辛いのはお前だけじゃない……だから、もう、忘れるなんて言うな……」

 テリーの言葉はユナの胸に強く響いた。
 テリーはオレなんかよりずっと辛い過去を生きて、それを背負って歩いてきた。出会った頃もそして今も心に辛い記憶を抱えて

 ドクン。
 心臓が揺さぶられる。
 今までで一番激しく心臓が高鳴りだした。
 その高鳴りを必死に抑え

「やっぱり、テリーは強いな……」

 そう言ってはにかんだ。

「オレは過去から逃げてばっかで、ホント弱いよな……」

 テリーが口を開くより早くユナは言葉を続ける。

「テリー……話してくれてありがとう……テリーのおかげで、大分落ち着いた。さっきは取り乱してごめんな、覚悟を持ってウィルたちと旅をしてたつもりなのに……」

「…………」

 テリーは何も言わずに視線で返した。

「テリーが来てくれて良かった……ほんとにオレ、出て行く所だった。すぐに周りが見えなくなって、自分勝手に行動するの悪い癖だから、それでいつもテリーに怒られてたのにな……」

 涙で赤くなった瞳と視線があった。いつもなら顔を赤くして真っ先に視線を逸らすのに、ユナは潤んだ瞳でじっと見つめ返した。

「オレ、頑張るから……テリーみたいに強くなるから。もう過去からも、自分からも逃げないよ」

 ユナは今度は無理に笑った。踵を返して、庭園を後にする。
 ユナが見えなくなるとテリーは数歩下がって木の幹に背を押しつけた。と同時に胸と顔を手で押さえる。
 ドクン、ドクン、といつもより熱く激しく脈打っていた。

 何故オレはあいつにあんな事を言った
 何故オレは知られたくなかった自分の過去を口にした
 何故オレは、あいつにあんな事……

 自分の唇を指で確かめた。ユナの柔らかい唇の感触をまだ覚えていた。




”辛いのはお前だけじゃない、だから忘れるなんて言うな”

 庭園に沿った長い回廊を歩きながら、ユナはテリーの言葉を思い出していた。
 過去を思い出したショックでそんな事すら忘れていた。

 ユナと同じように娼婦として働かされていた少女たち、その子たちは今何処で何をしてるんだろうか。

 好きな人と出会って幸せに暮らしているんだろうか。
 辛い記憶を抱えても、懸命に生きてるんだろうか。
 テリーと、同じように

「――――…」

 話してくれた記憶がユナの脳裏をかすめた。
 どんなに、辛くて苦しかっただろう。過去のテリーと自分が重なる。
 そんな過去があっただなんて微塵も感じなかった。だってテリーは

 皮肉屋で、自信家で、人に屈する事が大嫌いで、目標に向かっていつもまっすぐで……

 胸がまたぎゅっと締め付けられる。
 この気持ちを抱えてるのは自分だけじゃない、テリーも……。
 過去と秘密の共有が辛い記憶を和らげてくれた気がして

「テリー……」

 その名を口にする。
 指で唇を確かめた。暖かい体温がまだ残っているように錯覚して、胸が高鳴った。

 ――――…嬉しかった
 引き留めてくれた事も
 辛い過去を話してくれた事も
 ……キスしてくれた事も

 顔が熱で上気する。テリーの一挙一動を思い返して、心臓の高鳴りは止まる事をしらない。

 ずるいな、こんな事されちゃ

「絶対に、忘れられないじゃないか……」




「いや〜〜、それにしても本当におどろいたよな!ユナがゼニス王の娘だったなんて!オレはてっきりお前の実家は、どこかの街の賑やかな酒場かと思ってたんだけどよ!」
「ハッサン、それどっかで聞いた〜」

 もてなしの食事や酒を楽しみながら仲間たちは会話を弾ませた。
 出て行ったユナが何事も無かったかのように笑顔で帰ってきたので、彼女の気持ちを汲んで仲間たちは普段通りに過ごした。

「天空人って言っても、私たちと何も変わらないのでしょう?そうですよね?グレミオさん」
「ええ、身体も寿命もさして変わりはありません。ただ少し違う所と言えば、自然や動物、魔物とも心を通じ合わせる事が出来る点でしょうか」
「それは、間違いなくユナだな。身に覚えありすぎだな……」
「うふふ、そうね。間違いないわ」

 くすくすとミレーユは笑った。お酒が入っていたであろう彼女のグラスはもう既に空になっていた。

「そこに逃げ足が速いって所も追加しておいてよ!」
「何でも食べるって所もな」
「ちょっと!どさくさに紛れてバカにすんなよ!」

 ハッサンとバーバラがからかった所でユナが怒る。何度となく繰り返してきたパーティの団欒に(ユナはそうは思っていないかもしれないが)皆は一斉に噴き出した。
 空のグラスに飲み物を注ごうとしたグレミオの手が震えている事に気付いて、ユナはそっとグレミオを見つめる。目が合うと向こうは潤んだ瞳を隠すように笑った。

「あの、オレ馬車に残した皆の様子見てくる」

 皆というのはもう一つのパーティ、仲間の魔物たちの事だ。ユナは籠いっぱいにフルーツを見繕うと席を立って出て行く。皆はお互いの顔を見合わせると食事する手を止めて

「……強い方ですね」

 最初に言葉を発したのはチャモロ。

「本当は色々混乱してるだろうに、オレたちに心配かけまいとしてるんだろうな」
「ユナらしいと言えば、ユナらしいけど……」

 だからこそ、いつもと同じように接した。しかし彼女の内情や置かれている現状を思うと、心配でたまらない思いが過ぎる。ユナは一通り簡単に経緯を話してはくれたが、所々暗い表情を落としていた事が皆は気になっていた。

「あたし……ユナとまだ旅がしたいよ……ここに残るって事は無いんでしょう?」

 目の前のグラスに注がれた葡萄酒をバーバラは潤んだ瞳で見つめた。

「記憶を取り戻すって事が、あいつの旅をする目的だったからな……それに、大切な人を見つけるっていうのも叶ったわけだし……」

 何となく視線がミレーユの隣のテリーに集まった。

「……それは、あいつに聞いてみないとわからないだろう」

 視線に返す形でテリーはそう答える。

「テリー、ユナちゃんとは、話せたの?」

 ミレーユの言葉にアメジストの瞳が少し揺れた。ほどなくして「ああ」と短く呟く。そして鋭い視線をハッサンやウィルに寄越した。

「勘違いしてるようだが、あいつは強いわけじゃない。だからこそ、お前たちが必要なんだろう」
「そうだな、あと、もちろんお前もな……テリー」

 皆の気持ちを代弁したのか、ウィルがすぐさま返す。テリーは舌打ちすると、グラスの酒を全て飲み干した。そしてミレーユに”少し出てくる”と告げて席を立った。




「スラリン!みんな」

 城の外に繋がれていた馬車の中。呼びかけるとスラリンや仲間モンスターがひょっこり顔を覗かせた。

「一緒に連れて行けなくてごめんな……」

 差し出された籠いっぱいのフルーツ。

「いやはやユナ様が謝る事など何もございません。馬車を守る事が我々の仕事。その任を預かる事はなにより大切な私の誇りですから」
「そーそー、ご主人が気にする必要ねーよ。オレたちが好きでやってる事だし」

 スライムナイトのピエールは正座して姿勢をただし、キメイラのメッキーは果物を貪りながら言った。

「わあ!果物おいしそうだね〜。ありがとう、ユナちゃん!」

 ホイミスライムのホイミンも素直な気持ちを述べると、メッキーと同じように果物を口に頬張った。 その様子を見て、ユナも少し表情が緩む。スラリンはフルーツを食べる事もなくユナの肩を介して馬車の外へと飛び出した。

「スラリン?」

 スラリンはそのまま近くの木の根元にジャンプする。ユナが近寄ると

(ユナ、記憶大丈夫だった?)

 他の仲間モンスターの前では聞き辛いと思い、気を回したのだろうか。ユナは、また少し表情を曇らせ木の根元に腰を下ろした。

「うん……思い出したよ、全部……」
(……そっか……)

 ぷにぷにとしてひやりと冷たい触感がユナの手のひらに降りてきた。
スラリンはいつも一緒に居てくれて、いつも励ましてくれて、それなのに……
何もかも捨てて逃げ出そうとした自分が嫌になる。ユナは手に降りたスラリンをぎゅっと強く抱きしめた。いたいいたいと鳴くそのスライムの顔はどことなく楽しげだった。

「なぁ、スラリン。出会った頃のオレってどんな感じだった?」

 ふと、そんな言葉が口から出る。スラリンはゴム状の身を縮みこませると反動でぴょんっと飛び跳ねた。

(そうだなあ、出会った頃のユナは…今と違って男の子の言葉じゃなくて、女の子の言葉で喋ってたんだ。でもすごく悲しそうな顔をしてた)

 もしかしてそれは、記憶を失う前の自分なのだろうか。

(言葉が通じる人間に初めて会って、僕は君に興味が湧いて最初は面白半分で付いて行ったんだ。君は全然喋らなくて笑いもしなくて、でも生きる事に必死だった)

 スラリンだけが知っている昔の自分。それは苦しいけれどとても興味深く感じてユナは耳を傾けた。

(お金も稼げなくて、必要な物は全て盗んだ……。最初は怖い人かと思ってたけど旅する内に、本当は優しい女の子だって分かったよ。盗みを働く事が嫌でたまらなかったんだって)

 だんだんと記憶とスラリンの言葉が重なってきた、盗みを働いてた事は覚えている。ユナは眉を下げてそっと背中の大剣に触れた。

(君の言動が男らしくなる度に、喋る事も笑う事も多くなってきた。昔の君の面影は消えて、代わりに男っぽい君になった。楽しかったけど、ちょっとさみしかったかなぁ、本当の君が居なくなっちゃったみたいで……)

 君に笑顔が戻って嬉しかったんだけど、と付け加えて思い出したように

(でも、テリーと会えた)

 突然その名前を聞いて、胸が飛び跳ねた。

(テリーと会って、君はどんどん女の子に戻っていった。言葉使いは相変わらずだけど、ガサツさや無理に男らしく振る舞う所は消えて、昔の君に戻ったみたいですっごく嬉しかったよ)

 否定の言葉が見つからず、口をもごもごさせながらユナは俯いた。

(あれだけ男になりたいって言ってたのに、今じゃ”女の子らしくなりたい”だもん妬けちゃうよね〜)

 ぴょんと飛び跳ねて、いつものように肩に乗る。他のスライムより幾分小さなスラリンは、冷たい体をユナの頬に押し付けた。

(良かったね、テリーに会えて)

 すぐ隣のスライムと目が合う。ユナは目を細めて「うん」と優しげに口元を緩ませた。
一人と一匹の間に心地よい沈黙が下りる。気持ちいい夜の風にマントがはためくと、ユナは思い出したように鞄の中から道具袋を取り出した。

「そういえばこの笛さ、オレの母さんの笛なんだって」

 それはスラリンも見慣れた大切な銀の横笛。

「いつも吹いてる旋律も、昔母さんが弾いてたんだって」
(そっか……ユナ、ちゃんと覚えてたんだね)
「うん……オレ、母さんの笛聴くの大好きだったんだ。それはハッキリ覚えてる」

 思い出せないのは、その顔。
 グレミオは何も言わなかったが、王の間に玉座はひとつしかなかった、なによりそれらしい人物にも会ってない。
 きっと、もう――――……

 横笛は夜の光を浴びて青く光っている。そっと唇を当てると、自然と指が動いて澄んだ音色を奏でる事が出来た。その音色は優しくて美しくて、今も昔もユナを救ってくれていた。




 城の古い図書館を抜けたその先に、テラスへ続く扉があった。城の裏手に位置するその場所は人気も無く静かだった、おそらく誰も寄りつかないのだろう。テラスは手入れが行き届いておらず壁には幾重にも蔦が這って絡んでいた。
 静かなこの場所は物思いに耽るにはうってつけの場所で、ヘルクラウドに居た頃からテリーのお気に入りだった。

 玩具奴隷。
 反吐が出そうな言葉だ。

 ギンドロの売れ残りが地下で何をされていたのか、旅先の闇商人から聞いた事がある。
 姉のミレーユが売れ残った奴隷ではないと知って心底ほっとした。姉は王に献上されたが、酷い目に遭う事もなく、地下通路から逃げ出した。それがテリーにとってなによりの救いだった。

 彼女の、あふれる涙。

 テリーはきつく唇を噛みしめて、拳を握った。手すりに拳を振り下ろすと城石が欠け、パラパラと落ちていく。
 5年ほど前、内乱によって王が代わり奴隷は全て解放されたと聞いた。

 それまで、あいつは”あそこ”に居たんだろうか
 その間どれほど苦しかっただろうか、どれほど、逃げ出したいと思っただろうか。
 もう一度、先ほどより強く拳を叩きつけた。大きな欠片が重い音を立てながら落ちる。
 今まで必死に生きて、ようやく記憶を取り戻せたと言うのに。

 こんなのは、あんまりだろう――――

 屈託のない笑顔で自分を呼ぶ彼女の姿が蘇ってきて、心臓の音が体中を突き抜け一瞬息が止まった。
 握り込んだ拳を額にこすり付ける。耐えがたい程に胸の奥が苦しくてテリーは呻いた。

 こんな苦しみを味わうくらいなら、体を剣で刺された方がまだマシだ。
 あいつと出会ってから、幾度となくそう思ったが今回は特別だ。

 聴きなれた清く澄んだ音色が遠く響いてくる。
 それでもテリーは顔を上げる事が出来なかった。
 湧き上がる体の熱は分厚い手袋を通して何かを訴えかけてきて、その何かを汲み取る間もなく、テリーはむりやり考える事を止めた。



 自室のテラスで世界を見ていたゼニスにも音色が届いた頃。
それはまさに最愛の人の音色そのもので、ゼニスは思わず柵から身を乗り出した。

「この音色は……!」

 その人が蘇ったかのように錯覚して取り乱す。気付いた後も落ち着く事も出来ないまま、顔を両手で覆った。

「アイリーン……私は……私は間違っていたんだろうか……?」

 ふらふらと自室に戻ると、大きな肖像画の前で両膝をついた。
この世の物とは思えないほど美しい肖像画の女性は微笑んで見つめている。何も心配いらないと言う顔で。



 懐かしい音色を奏でると心が少し安心した。
 母さんが教えてくれた音色。記憶には残っていないが、横笛から自分以外の暖かさが伝わってくるような気がして。
 母さん――――……
 この城に来て、やっぱり良かった……。ようやくユナはそう思いはじめていた。



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