41. 遠い記憶



 永遠と思えるほど長い時間。
 ユナの背から羽ばたいたと思った黒い羽は、すぐに消えた。初めて見るユナの姿に、テリーすらも、その場の全員が声を失って立ちすくんだ。
 見た事もない自分の知らないユナの姿。

「ユリアナ……わが娘……生きて、生きていてくれて……」

 震える体で一歩一歩近づく、震える手で触れようとした時

「やめ……て……」

 苦しそうに声を押し出した。

「知らない、私は、オレは……オレは何も知らない……!何も、何も知らない……!私は、オレは天空人なんかじゃ…ない……オレは……オレ、は……っ」

 懸命に立ち上がって、後ずさった。
 瞳に、ゼニスの姿が飛び込んでくる。自分と同じ、金色の不思議な色をしていた。

「――――…!!」

 ユナは無我夢中で、逃げるように部屋から飛び出した。

「ユナ!!」

 バーバラが弾かれたように後を追う。いつのまにかテリーも居ない。
 取り残された皆は、ただただ状況を整理する事で精いっぱいだった。初めてみるユナの表情も、声も、頭に焼き付いて離れなかった。

「ユナ……ちゃん……」

 ミレーユはぎゅっと胸に手を当てると、追いかけたい衝動を必死で抑えた。それは恐らく皆も同じで。

「ユリアナ……って、あいつの、名前なのか……?」

 ユナが駆けて行った方を見つめたまま、呆然としてハッサンが呟いた。

「ユナさんが、ゼニス王の子供……」

 ゼニスは、よろよろとその場に崩れ落ちた。ウィルは我に返って、王を支えてやる。

「ゼニス王……」
「ユリアナ……ユリアナ……っ」

 いなくなってしまったユナに向け、ゼニス王は必死に手を伸ばした。玉座の間に居た兵士たちもにわかにざわめき始める。

「ゼニス王、ユナは……」

 ゼニスの瞳にようやく、光が戻ってきた。ウィルの肩を借りて玉座に戻るが、ゼニスの体はずっと震えていた。

「まさか……まさかあの子が……」

 聞くまでも無い、ユナが娘だという言葉は真実なのだろう。

「まさか、本当に、こんな事に――――……」

 両手を組んで、必死に震えを抑えて

「見苦しい所を見せてしまってすまない……詳しい話は後でするから、今は、私も、一人にしてくれないか……?」

「わ、わかりました。それじゃあオレたち、その、ユナを探してきます!」

 ゼニスは青い顔でゆっくりと頷く。兵士たちも部屋から閉め出され、扉は再び堅く閉じた。
 皆は思い思いの気持ちを胸に、仲間の姿を探しに神の城を駆けた。



 どこをどう走ったのか分からない。
だが、ユナは知っていた。この城の事を、思い出していた。城を囲む庭園、そこには秘密の通路があった。深い茂みの奥に古い扉があって、兵士の目を盗んで、外に出られる場所――――。
 広い庭園の奥、そこを目指そうとした所で

「ユリアナ様!」

 懐かしい声に呼び止められ、立ち止まるつもりの無かった足が止まった。振り向く間もなく、その声の主はユナに近付いて、抱きしめた。

「グレミオ……っ」

 記憶の中の姿に、自然と名前が溢れる。

「ああ、本当に、本当にユリアナ様……!生きていて下さってたなんて……!」

 藤色の髪を後ろで一つに束ねて、紺色のメイド服に白いエプロン。ふくよかな顔に、皺が刻み込まれている。ユナの乳母で、ユナはこのグレミオの事が大好きだった。
 グレミオはひとしきり抱きしめた後、涙で赤くなった瞳でユナを見つめた。

「本当にアイリーン様にそっくり……こんなに、大きくなられて……」

 その名前を聞いて記憶が更に蘇ってくる。
 木々の合間から差し込む金色の光、穏やかで優しい声、自分の頭を撫でてくれた暖かい手、その顔はぼやけて見えなかったが良く知っている音色が記憶の中で蘇ると不思議な言葉が漏れた。

「……母さん……?」

 ゆっくりとグレミオは微笑んで頷いた。
ユナは、その音色を聴きながらその人の側に居る事がどんなに嬉しかったかを思い出した。

「アイリーン様はとても優しくて美しくて聡明なお方でした。ユリアナ様はアイリーン様の笛の音が大好きでして、庭園で笛を奏でるお二人のお姿をよく見かけたものです」

 ユナの左手に持っていた横笛に目をやり、グレミオは涙を耐えようと口を両手で抑えた。

「良かった……その笛、持っていてくれたんですね……」

 ハッとして、左手の笛を胸に抱え込む。

「この笛は母さんの笛……?」

「ええ……ユリアナ様を城から逃がす際にアイリーン様が持たせたと聞いてます。きっとその笛が、ユリアナ様を守って下さったのですね」

 エプロンで堪え切れなかった涙を拭った。

「逃がす……?」

 次にグレミオが目にした物は驚愕に顔を歪めたユナの姿。

「捨てられたんじゃなく、て……?」

 グレミオは”勿論ですとも!”を語気を強めて

「あの頃の城は、私の耳にすら入ってくるほど内部の争いは酷いものでした。私にはユリアナ様を手放す事になった経緯はわかりません、ですが、ゼニス王から聞いたのです。あなたを守る為に、下界に逃がす、と」
「そん、な……」
「お二人はユリアナ様を心から愛しておられました。きっと身を裂かれる程お辛かったでしょう……。この事はお二人と私、三人だけの秘密でした。アイリーン様は自ら下界に行き、ユリアナ様をとある街の夫婦に託されたのです」

 グレミオの言葉によってどんどん記憶に色が付く。途切れ途切れの映像がひとつに繋がって行く。

「確か、その街の名前は、ガンディーノ……」
「――――…っ!!」

 体から力が抜けその場に崩れ落ちた。胃液が逆流して、むせ返るような吐き気が襲う。
それを何とか耐え、ユナは首を振った。冷たい汗が首筋を伝う。

「わるい……ちょっと一人にしてくれないか……?」
「申し訳ございません!ユリアナ様のお気持ちを考えず、私の伝えたい事ばかり……!」

 グレミオは慌てて口を噤み、ハンカチでユナの額の汗を拭ってくれた。

「大丈夫、ありがとう……」

 気遣う言葉を返せたのが救いだった。グレミオはこんな所にユナを一人にしていいものか迷ったが、主の命に背く事は出来ず、頭を下げると何度も振り返りながらその場を離れた。
 ユナは庭園を囲うように生える木の根元に腰を下ろす。汗は止まらない。額から、背中から、追い詰めるように滲んできた。

 ガン ディー ノ……
 グレミオの言葉。思い出したこの記憶は……

 ぶるぶると体が震える。その記憶は目を閉じても、頭を振っても、何をしても消える事は無い。

 いやだ いやだ こんなのいやだ
 こんなの、オレの記憶じゃない 思っていたオレの過去じゃない

 黒い何かが体の中を無数に徘徊している。両手で痛い程強く自分の体を押さえつけた。

 いやだ いやだ いやだ
 もう消えてしまいたい…………!

「こんな所に居たのかよ!」
「――――っ!」

 銀髪にへばり付いた緑の葉っぱがやけに映えて見える。そんな事にはお構いなしで、向こうは膝をついてユナの視線に合わせた。

「何度、人に心配かければ気が済むんだよお前は!」

 唖然としているユナの手を無理やり引っ張る。その手が異常なほど冷たくなっていて、言葉が止まった。

「テリ……」

 その姿がやけに懐かしい。怒られる事も、皮肉を言われる事も、何故だか今はただ嬉しい。

「……ふ……っ……うっ……」

 大きな瞳にみるみる涙が浮かんだ。今まで不思議と出なかった涙が堰を切ったかのように溢れ、頬を濡らした。

「……ユナ……」

 久しぶりに呼ばれたような気がする、自分の名前。
 涙を抑える事が出来ず、手のひらで流れる涙をぐしゃぐしゃに拭った。

「うっ……ふっ……うぅっ……」

 嗚咽が止まらない。
 テリーは何も言わず、問いかける事もなく、ユナの隣に座った。
 そしてただずっと側に居てくれた。



 木々の間から差し込む光が夕暮れに変わる。ユナの嗚咽が収まった頃、テリーはようやく声を掛けた。

「……良くここまで泣けるもんだな」

 いつもの皮肉。ユナは真っ赤に腫れた瞳で少しだけ顔をあげる。

「こんな時くらい、優しい言葉かけてくれたっていいだろ……」

 いつもと同じ皮肉の応え。知っているいつものユナ。テリーは少し安心した。

「バカ」
「バっ、バカは無いだろ!こっちは記憶取り戻して、すっげえ大変な思いしてんのにさ!」

 涙で腫れた赤い目で口を尖らせる。もうユナは大丈夫そうだ。そう思ったら疑問や言葉が自然と湧き出る。

「……ユリアナっていうのは、お前の本当の名前か?」
「……そうみたい」
「……ユナよりも、もっと似合わない名前だな」
「ひっどいなぁ、今言うかよ!」

 ちらりとユナの顔を盗み見る。頬に手を当て、面白くなさそうにふて腐れている。それを見て再び気が緩んだ。

「それにしても、お前が天空人……ゼニス王の子供だったなんてな」

 言ってしまって一瞬、はっとするが、ユナは特に気にする素振りも無くあははと笑った。

「オレが一番ビックリしてる。まさかの姫様だぜ?もしかしたら将来、この城を継ぐことになるのかな、なんて」
「バカ」

 心配してしまった自分に呆れて悪態が口をついて出る。ユナはまた口を尖らせた。

「あっ、また言った!なんだよ、だからこんな時くらい優しくしてって……」
「もう少し”しおらしく”していたら考えなくは無かったけどな」

 そんな悪戯っぽい台詞を残して立ち上がる。その場から立ち去ろうとするテリーを呼び止めて

「テリー、ありがとう……。来てくれて、すごく嬉しかった……」

 その言葉を聞いて、テリーの足が止まる。一呼吸置いて振り向かずに呟いた。

「別に。姉さんが心配していたからな、様子を見に来ただけだ」
「……うん……」

 ユナの言葉を聞くと、そのまま一度も振り向くことなく出ていった。

「テリー、ほんとにありがとう……」

 見えなくなった背中に向けて一人ユナは呟いた。そして

「……ごめん」

 唇を噛みしめて

「テリー、バーバラ、皆……ほんとに……ごめん……」



 庭園を抜け城に戻ると城内がやけに騒がしい。その理由は

「テリー!」

 呼び止めたのは赤毛の少女。

「ユナ居た!?」

 騒がしいのは会話に上がった人物が原因だろう。城の王女が生身のまま帰ってきたとあれば、城中騒ぎになるのも無理はない。なにせ、ゼニス王ですら、ユナが生きて帰って来るとは思ってなかったのだ。

「テリー聞いてる!?」
「ああ、ユナは見つけた。あいつなら大丈夫だ」
「ユナ居たの!?」

 だからそういっただろう、と返す間もなくバーバラは次の言葉を投げかける。

「大丈夫ってどういう事!?大丈夫なはずないじゃない!」

 食って掛かるような剣幕でテリーをまくしたてた。

「あのユナの取り乱し方、尋常じゃなかった……あんなユナ、初めて見た……!記憶の事も、天空城の事も、ゼニス王の事だって……」

 親友の彼女の事を思うと、バーバラの小さな胸は潰れそうだった。
 カルベローナで記憶を取り戻した時、一気に昔の悲しい記憶が流れ込んできて押し潰されそうになった。それを支えてくれたのは、仲間であり、ユナであり、最愛の人だった。
 バーバラは気持ちを抑えまっすぐにテリーを見つめた。

「きっとユナは傷付いてる。だから、居場所が分かってるんだったら、もう一度行ってあげて」
「…………」
「ミレーユやみんなにはアタシから言っておくから、ユナをお願い……」

 テリーはため息をついて踵を返す。
 バーバラから言われるまでも無く、考えれば考える程気持ち悪い何かが胸の奥から湧き上がっていた。一人だけ実体を持っている彼女、ゼニスとのやり取り、あの時、自分の顔を見てあふれる涙を流した事も。

「………くそっ……」

 突然嫌な予感が弾けて、テリーは足を速めた。
 別れ際の悲しそうな声がただずっと耳にこびり付いていた。



「ユリアナ様……」

 ようやく立ち上がったユナの前に現れたのはグレミオだった。ユナは強張った顔を少しだけ緩めて

「よかった、グレミオ、探しに行こうと思ってたんだ」

 その言葉の意図が掴めない。聞き返す間もなくユナは続けた。

「オレ、また旅に出るよ!ゼニス王やみんなに、そう伝えておいて」

 愕然とした後、グレミオは必死にユナにすがりついた。

「なっ、何をおっしゃいますか!混乱されているのはわかりますが、そんな事を考えるのはおやめください!」
「ごめん、グレミオ……でも……オレはもう、みんなと一緒に旅する事なんて出来ない……」

 日が落ちて、冷たくなった木々のざわめきと一緒にそんな言葉が流れてきた。
 ユナの姿を見つけてほっとしたのも束の間、テリーは眉を潜ませ声を押し殺す。

「どうしてそのような悲しい事をおっしゃるのですか!私もゼニス様も城に居る者は貴方の帰りを待っていたというのに……それに、貴方のお仲間も……」

 気持ちを込めて両手でユナの手を包み込むよう掴んだ。しかしその手は酷く震えていて、はっとして手を離す。
 陰った金色の瞳。その悲しみの混じる瞳はとても、色濃く深い物に感じた。

「ありがとう……グレミオ」

 口からようやく押し出した言葉。ユナは目を伏せて背を向けた。

「天空人はさ、分かるんだろ?天空人には翼があるって……」

 それは証のような物。天空人には真っ白い翼があるらしく、同族同士でそれを感じる事が出来た。

「オレにも翼があるってわかる?」
「…………っ!」

 みるみるとグレミオの顔色が変わる。血の気が引いた所で、ふらふらと膝を付いた。

「その、黒い翼は……どうして……」
「……やっぱりそうなんだな……この翼の意味って……」

 振り向かずユナは答えた。グレミオの反応が、思い出した記憶と重なる。
 やっぱりこの記憶は……

「人と交わった証」

 それは、どちらが言ったのかすらわからなかった。
 じっと息を潜めて聞いていたテリーの目の前が一瞬、真っ白になる。

 今 なんて言った………?

 信じがたい真実は、動揺するテリーを待ってはくれなかった。

「下界で何があったのですか!?」

 叫ぶようなグレミオの声。ようやく振り向いたユナの瞳はあの時、絶叫した時と同じ悲しみに満ちていた。

「……ガンディーノ……」

 突然耳に飛び込んできたその言葉。
 湧き上がる動悸を必死に抑えて、テリーは息を殺した。

「オレが預けられたその街は、見た目の華やかさと違って高い税や厳しい王政でみんな苦しんでた。生きていくだけで精いっぱいで、その日食べる物にも困った、自分の子供すら売ってお金に換える家だってあった。本当に、酷い有様だったんだ……」

 遠い記憶を追って喉から声を絞り出す。

「オレを育ててくれた夫婦は良い人たちだったよ……生活は苦しかったけど、それでも幸せだった。オレはその人たちが大好きだった……」

 幸せな光景だけは鮮明に覚えていて、それだけが救いで

「でも……」

 その光景は長く続かなかった。

「お金がなくて、税が払えなくって……ギンドロ組って人身商売してる人たちが来て……オレは無理矢理連れてかれて……」

 ギンドロ組――――
 ぞわりとテリーの全身から血の気が引いた。過去の辛い映像がユナと重なる。

「そこは……想像してたよりも遥かにひどい所で……、泣いても叫んでも誰も助けてくれなくて……ギンドロに買われた奴隷たちは、もっと高い金で商人や貴族に売られたり……中には税代わりに王に献上される奴隷も居たりして……」

 だんだんと、ユナの呼吸が荒くなった。

「売れ残った奴隷は……そこで……地下の部屋で、逃げられないように鉄の扉に鍵を掛けられて、じめじめしてて、日の光も当たらなくて……」

 暗い世界の分厚い扉がゆっくりと開く。泣いても、叫んでも、誰も助けてくれない。

「お……男の人が、たくさん来て……そこで……そこ、で……」

 その言葉の持つ意味は一瞬にしてテリーとグレミオの心を飲み込んだ。
 その意味を否定したかったが、潤んだユナの瞳がそれを許さなかった。

 真っ青な顔で震えて、両手で自分を抱きしめて、焦点の合ってない瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちて―――。

「そこで、オレは……」

 テリーの胸が激しく揺らいだ。
 音を立てて足元が崩れていく感覚。

 嘘だ………

 出会った頃から今までのユナとの思い出が蘇る。

 嘘だろ………?

 こいつは何も知らなくて、正直で、バカで、純粋で、明るくて、オレとは違う―――……。

「ユリアナ様……」

 グレミオはふらつく足でようやく立ち上がった。どんな言葉を掛けても大切な主人を傷付けてしまいそうで、グレミオはただただ強く抱きしめるしかなかった。

 この事を、言葉に出すのは辛かった。だが、誰かに伝えなくてはと思った。
 そう、それは

「……大丈夫……また、忘れるから……」

 ぎゅっとグレミオを抱きしめ返して、その暖かさを感じて

「ごめん、ごめんな、グレミオ……。オレはまた、忘れる、全部。天空城の事も、グレミオの事も、ゼニス王の事も、母さんの事も、みんなの事も……」

 ふくよかな胸の中で何度も何度も謝った。

 記憶に押し潰されそうだ。恐怖と嫌悪感が体中を蝕んでいくと、遠い昔の幻聴が聞こえてくる。
 いつ負ったかも分からない体の傷痕が疼いた。虐げられ、罵声を浴びせられ、むりやり凌辱されて――――

「……ごめん……もう……オレ、そうでもしなきゃ……耐えられない……」

 今になってようやく分かった。
 記憶を失った理由も、女の自分が嫌で男になりたかった理由も。

「なんで……こんな所来ちゃったのかな……」

 か細い声で呟いた。

「神の城の事も、全部綺麗に忘れてれば良かったのに……」

 そうしたら、こんな辛い事思い出さずに済んだ。ずっといつもの自分で居られたのに。

「……ユリアナ様……」

 色んな思いを込めてグレミオは呟いた。ゆっくりと深呼吸して、ぱっと顔を上げる。

「わかりました!ゼニス王や皆様には私から上手く話しておきます。だから、安心して下さい」

 ユナの気持ちを全て受け入れてくれ、グレミオは無理にくしゃくしゃの顔で笑顔を作った。

「その、銀の横笛があればきっと、大丈夫です。ユリアナ様はユリアナ様が思うままに生きて下さい……!」

 空元気で明るく振る舞うのが見て取れる。
 名残惜しそうに手を解くと、最後にようやく、彼女は美しいお辞儀をしてみせた。

 グレミオが立ち去った後、ユナはぎゅっと銀の横笛を握りしめ、城を見上げた。

 さよなら 皆

 さよなら テリー

 城に背を向け、足を踏み出す

「待てよ!」

 その声は一瞬でユナを引き留めた。

「逃げるのか?」

 弾かれたように振り向く。今一番、会ってはいけない人影だった。

「……テっ……」

 動揺して言葉が出ない。そんなユナに代わりテリーが応える。

「逃げるのか?過去からも記憶からも」
「――――…っ!」

 アメジストの瞳とその言葉に胸が射抜かれる。一番知って欲しくない男に、全てを知られてしまった。その現実はますますユナを打ちのめす。走り出すより一瞬早くテリーの手がユナの腕を捕らえた。

「せっかくここまで来たのに、また逃げ出すのか?それで本当に良いのか?」
「…………」

 ユナは何も応えなかった。テリーはユナの言葉を待ち続ける。夕日は沈んで、夕日の色を残した雲だけが赤く世界を照らしていた。

「……んで、だよ……」

 静かな庭園にユナの言葉が流れて消えた。 

「なんで、こうなるんだよ……オレはオレのままで、テリーの前から消えたかったのに――…」

 ポツ、ポツと、涙がユナの頬に流れて地面を濡らした。

「逃げちゃダメなのか?オレは、テリーみたいに強くない……過去に立ち向かって強くなるなんて、出来ない……だから、もう……」

「だから忘れるのか!?」

 テリーは掴んだ腕を引き寄せてユナを無理矢理振り向かせた。振り向いたユナの瞳は真っ赤に腫れて大粒の涙が溢れていた。

「辛い過去も、辛い記憶も、皆の事も、そして……」

 オレの事も……

 テリーの胸がぎゅっと音を立てて軋む。その苦しみに耐えられなくて、テリーはいつの間にかユナを抱きしめていた。

「……っ!テリ……」
「忘れるなんて言うなよ……」

 テリーはあまりの息苦しさに胸を掻きむしりたい衝動に駆られた。
苦しくて切なくてどうしようもない。初めて感じる感情が、体中を駆けめぐる。

「消えるなんて……言うなよバカ!!」
「――――……っ!」

 唇が触れた。銀髪が目の前でちらつく。突然の出来事に、思考が真っ白になった。

「………ん……っ!」

 息遣いと、唇の感触。
 飛んだ思考がハッキリしてくる度に、ユナの中に信じられない思いが過ぎる。
 そっと、テリーは唇を離した。

「……テ、リー……」

 苦しみでも悲しみでも無い涙がユナの瞳にあふれた。

「テリー……」

 愛しい名を呼ぶたびに涙が頬を伝う。

「テリー……っ」



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